負けず嫌いの仮面
ふと気づいてしまった…。
自己紹介的なもので、自分の性格を問われる時、いつもその答えの中に
「負けず嫌いな性格です。」っていうのが入ってたんだけど、何かそれ、違うんじゃないかなって…。
本当につい昨日までは、疑う事無くそう信じていたんだけど、やっぱり違うよなって…。
最近は個展に向けて一人で絵を描いている時間が増えた。
そうすると、必然的に自分と向き合う時間が長くなる。
ゆっくり流れる時間の中で自分と対話していると、いろんな感情が行ったり来たりするんだ。
そして遠い記憶が留まっている場所まで、僕の心が…と言うか、「魂」が旅をする。
小さな頃の僕は、いつも家族や周囲の大人の顔色を伺って、学校へ行けば先生や同級生の顔色を伺って、常にビクビクしていた。
起きている間は、一瞬たりとも心が休まる事ってなかったんだ。
小さな心臓は常にドキドキして、極度の緊張で大きく息をすることができなくて。
「無邪気」とは程遠い、ちょっぴり悲しい子供時代だった。
そんな僕は、時間が止まったような陽だまりの中で、綺麗な石を集めたり、水たまりの上を跳ねる雨粒をじっと眺めたりしているのが好きだったんだ。
たった一人、誰に邪魔されることも命令されることもない時間。
眩しい陽射し、青空と白い雲。
音がしているのに不思議と静けさを感じる雨の音。
そこにあるのは本当に穏やかで安らかな空気、そんな時間は緊張から完全に解放される。
この時間がずっとずっと続くといいなぁって、切ないくらいに思っていたっけ。
小さな頃は、集団の中で先を争って何かを手に入れるみたいな状況の時には、
最後に余り物を取りに行ったり、特に順番が決められていなければ、写真を撮る時も席に座る時も、いつも人より遅れてそっと端っこや後ろの方に収まった。
別にそれが嫌だった訳じゃない。ただその方が自分の心が楽だから、ごく当たり前にそうしていたんだ。
競ったり争ったり、勝ったの負けたの…そういう中に居る事が嫌いだったから。
でも、親とか先生にすれば、そんなグズグズとはっきりしない僕にイライラしたんだろうね。
何をするにも常に怒られて、怒鳴られて、身体はいつもアザだらけだったよ。
怒鳴られるのも、痛い思いをするのも怖かったから、僕はだんだんと人よりも早く、人よりも強く…そうならなければいけないって、
そうすれば褒められて可愛がられて、痛い思いをする事もないんだろうなって思った。
そしてまだ10歳にも満たない僕は、外では何をされても、何を言われても感情を出さない事に全ての神経を注いだ。
笑う事も無ければ、泣く事もない。必要以上は口を利かない。
それが僕が決めた「強い人間」。
だけど、能力が高いわけじゃないから、成績やいろいろ、痛い思いをしないで済むだけの結果を出すのはやっぱり難しかったな。
今思えば、あの頃の僕の中にあったのは、良い結果が出せない「自分に対する」負けず嫌いではなく、
「あいつらさえいなければ、痛い思いをしないで済んだのに…。」
そうやって「人を憎む心」から生じる折れ曲がった負けず嫌いだった。
本当の負けず嫌いって、そんな歪んだものじゃなくて向上心から生まれるもののはずだよね。
だから僕は、真の意味での「負けず嫌い」とは言えなかったんだ。
そんな事に、今更ながら気づいてしまった。
そして考えてみると、今の僕は、負けるのが嫌いとかって、これっぽっちも考えていない。
出来ない事を出来るようにしたいとか、もっと知りたい事があるとか、勝った負けたの世界じゃなくて、ただひたむきに自分を高めたい、可能性を広げたい…みたいな気持ち。
「負けず嫌い」ではなくて、自分で言うのもなんだけど、たぶん「努力家」なんだろうな。
いつから自分が変わったのかはよくわからないけど、あのピリピリした緊張も恐怖も、今はもう感じていない。
知らない間に勝つとか負けるとか、そんな事に心を揺らす必要もなくなっていたんだ。
だから今、僕は思う。
誰かと争うとか、競うとかは、もともと僕の中には無い世界だったんだって事。
そして小さかった頃の僕が、時間が止まったような世界の中で感じていた、穏やかで安らかな空気、それを僕の作品を通して、一人でも多くの人の心に届けたいんだという事を。
あの陽だまり、あの雨音の優しさを、
青空と白い雲、水たまりで弾む雨のしずくの美しさを、
誰かの傍らで共に感じる事ができるような作品をこの先もずっと作っていきたいという事を・・・🍀