「ありがとう」か「ごめんなさい」か
結論から言えば、「ごめんなさい」の方だと僕は思ってる。
何の話かというと、相手の “人間性” …もう少し柔らかい言葉で言えば “人となり” は、「ありがとう」を伝える場面よりも「ごめんなさい」を伝えるべき場面の方が、圧倒的にわかりやすい。
謝罪の言動は、その人の誠実さの度合いをあからさまに露呈してしまうから。
人の悩みの大半が人間関係の事らしいね。
自分の人生の時間を大切に思うなら、できる限りそんな事で悩む時間は減らしたいよね。
だから僕は誠実な人との時間を大切にしたい。
僕はかなり個人主義なので、人や環境に無理に合わせようとするとかなり大きなストレスを感じてしまう。
だからなるべく集団の中にいる時間を作らないようにしてるけど、それでも全く人と会わないわけでは無いから、いろんな事が起こるよね。
僕に対してはもちろん、それが誰か他の人に対する姿であっても、僕はその人とは距離を置こうと決めることがある。
それはやっぱり不誠実で無責任な姿に触れた時。
そう言う意味でも「ごめんなさい」は「ありがとう」より重要な言葉だと感じてる。
数年前からかな…たとえ心がこもっていなくても「ありがとう」っていう言葉を日に何度も口に出して(独り言だとしても)言っていると幸せになれるだとか、そんな話をあちこちで見たり聞いたりする事が増えた。
でも僕は、そんな心のこもってないただの「音」には全く意味が無いって感じてるけどね。
「ありがとう」と言う言葉が、まるで「おはよう」や「こんにちは」の挨拶のように気楽に自然と行き交うようになってる、そのこと自体は良いことなのかもしれない。
それにしても「ありがとう」に比べて「ごめんなさい」の方は、楽しい状況や嬉しい状況で使うものではないから、
そして気楽に…なんていうのはもってのほかで、心の底から伝えるべき言葉だったりするせいか、逃げ腰の人が多いように感じるよ。
逃げ腰どころか、かなり催促されるまで逃げ回ってる人もいるしね。
「ありがとう」はある意味、言葉ヅラだけでもなんとかなっちゃう場面って多いかもしれないけど、謝罪に関してはやっぱり心の底から真摯に伝えないと、それを相手側がちゃんと見抜くよね。
たとえ相手が何も言わなかったとしても心の底からの謝罪でないことは、きっとバレてる。
何か事が起こった時って、人の本性が見える。
速やかに心からの謝罪ができる人は、自分の言動に責任を持っている人だけ。
この “速やかに” というのもとても大切。
催促されるか切羽詰まるまで相手と向き合わない無責任な人間は、どんなに能力があろうが地位が高かろうが、瞬時にその信頼って崩れて、元に戻すことはほぼ無理。
それからよくあるのが、その場しのぎの「ごめんなさい」にその何十倍か何百倍の「言い訳」がくっついてくる場面。
そうなったらもう謝罪ではなくなるね。見苦しい。
こちら側の反応によっては「逆ギレ」…なんていうブザマな姿を曝け出す人もいたり…
人が一生の間で同じ時間を共有できる人の数って限られてる。
だからこそ変なわだかまりなど無い素敵な関係性を築いていきたいね。
「ありがとう」はとても大切ではあるんだけど、それ以上に心からの「ごめんなさい」が言える人間でありたいよね。
だって僕も含めて、人は誰でも大なり小なり間違いを起こしてしまう生き物。
それ自体を責めるのはちょっと違う。
そうなった時に、どう行動するのか。
お金や物では伝わらない、心からの言葉 を直接伝える。
それを速やかに出来るかどうか、
いや、「出来るかどうか」ではなく「するかしないか」
これが “人間性・人となり” であり、その人の正体だと思う。🍀
=スターシードが創り描く☆地球に人に優しいアート= noZomi hayakawa(陽日希)2024秋の個展『自灯明』
地球に人に優しいアート
noZomi hayakawa(陽日希)
2024.秋の個展
『自灯明』
2024/11.25(月)-12.01(日)
11:00ー19:00
(最終日は17:00閉館)
ギャラリー元町
・・・
誰もが心の奥に持つ、内なる光。
それは自身の信念や志、願い、そして大切な想い...
誰かが照らしてくれる灯火を頼りに生きても、
果たしてそれが、自分の人生なのだろうか。
たとえ、今は小さな灯りだとしても、
僕は、内なる光である自分自身を拠り所として生きていく。
noZomi hayakawa(陽日希)